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2020.12.21(月)

                                            2020年12月

2020年9月12日に亡くなられた上田益弘先輩(1956年卒)の訃報を同志社大学体育会バドミントン部OB・OGへお知らせしましたところ、次の方々からお悔やみのお言葉をいただきましたので、紹介させていただきます。

  OB・OG会幹事長 鷲江京子

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竹廣良司部長

 上田益弘様がご逝去されたとうかがい悲しい気持ちでいっぱいです。バドミントン部にとって大きな喪失であると感じております。バドミントン部の会合でご一緒させていただいた折に、お話しをさせていただくことがございましたが、バドミントンをこよなく愛しておられるのが伝わってまいりました。バドミントン部の後輩たちのこともしっかりと見守っていただき、現役学生にとっても大きな励みとなったことと思います。本当にありがとうございました。偉大なご功績にあらためまして敬意を表しますとともに、これまでバドミントン部に愛情を注いでいただきましたことに心よりお礼を申し上げます。ご冥福をお祈り申し上げます。

伊藤顕矢副部長(1989年卒)

 上田益弘先輩のご逝去の報に接し、心からお悔やみ申し上げす。私は1985年入学ですが、バドミントン部へ入部して間もなく、部の歴史に燦然と輝く実績をあげられた偉大な先輩である上田益弘先輩の存在を知りました。関東にお住まいでしたので、直接お会いしたりお話をお伺いしたりする機会はありませんでしたが、上田先輩のダブルスパートナーであった当時OB会長を務めておられた高谷芳明先輩や諸先輩方より、上田先輩のお話をお伺いし、伝統ある部の一員となれたことに大きな喜びと誇りを感じ、身が引き締まる思いに至ったことを覚えております。これからも、同志社大学バドミントン部の歴史に上田先輩のお名前は語り継がれていくことと思いますが、安らかなるご冥福を心からお祈りいたします.

小国久美(1979年卒 OB・OG会会長 )

同志社大学体育会バドミントン部創立以来最高の全日本タイトルを持っておられる上田益弘先輩のご冥福を心よりお祈り申し上げます。上田先輩を目指して頑張るOB・OGが今後もたくさん出てくれることを願っております。今回、同志社大学体育会バドミントン部を創立された初代主将 北川浩一先輩、同期の方々、ほか多くの方々が上田先輩を偲んで追悼の言葉をお寄せくださいました。ありがとうございました。

初代主将 北川浩一(1953年卒)

上田君とは、部活動としての接触はあまりなかったのですが、彼が大阪YMCAでプレイしていた頃から、十数年前迄、時々一緒にプレイしていた間柄でした。最後は、彼と同年卒OBの、山矢君と一緒に近所で練習をして、彼らが我が家で、寿司を平らげ、帰っていった時です。ぼんやりとした記憶を辿れば、その頃、彼から障害者バドミントンの普及活動への誘いを受けていました。それ以後、鷲江さんから、彼の入院、リハビリの報告を受け乍ら、精力的だった彼を思い浮かべながら、上田のこっちゃ、そのうち、また元気になりよるだろう、と思っていました。そうはならなかったのが残念です。同志社スポーツユニオン発行の“同志社スポーツの歩み”に、昭和29年、「トーマス杯世界選手権大会には我がクラブより上田を送る事になった。これは本人、のみならず、同志社クラブ歴史の中で輝かしき一頁を加えた。」とあり、貴君の功績を讃えています。振り返ってみれば、小生の卒業時の昭和28年から貴君の卒業時前年の昭和30年迄、我が同志社大学バドミントン部が日本での主な大会で果たした数回の優勝は、全て、上田益弘の活躍があってのこと。貴君の戦績は、同志社大学バドミントン・クラブの後輩部員には、大きな励みとなっているだろうし、それは、末永く続くでしょう。貴君の、極めて個性的なプレイスタイル、そしてパーソナリティ。今や、思い出の世界に入ってしまったのは、「残念や!」 上田君、小生は心より、貴君のご冥福をお祈りします。

北川武司(1956年卒)

上田益弘君の訃報の連絡を受け残念です。心からお悔やみ申し上げます。益弘君よ君がアベノ筋の上田酒店の配送集金等手伝いながら時間があれば走り込みバドの練習と部活動、学校催しのボクシング大会に参加するなど元気な姿しか浮かび上らず、関東地区へ移住してからはお会いする機会も少なく八年程前電話で故高谷(芳明・1956年卒・初代OB会長)の墓参に大阪に行くと連絡が有り高槻で一緒に墓参、その時もタフな君が一番長生すると思っていたのが最後になり残念です。天国でYMCA故川口先輩、高谷君とバドミントンを楽しんで下さい。たまには故須田(展夫・1955年卒)さん、故村田(士郎・1956年卒)、故中村(駿一郎・1957年卒)、故鶴川(隆造・1958年卒)君等も仲間に入れて安らかにお休み下さい。ご冥福を心からお祈りいたします。

小林正太郎(1956年卒)

追悼 同輩では高谷(芳明)が、中村(駿一郎)が、岡本(村田士郎)が、そして上田までもが彼岸へ。上田は「マス」と呼ばれて居た。一見荒削りながら、素朴で心の優しい奴でした。二年位前に電話で「俺(上田)は今でも、小学生にバドを教えて、東で頑張っている。お前(小林)も西で頑張よ!! 東と西で頑張り合いやぞ!!」 が彼と言葉を交わした最後でした。さっそく我が家の仏壇ですが、お線香を炊いて、彼の冥福を祈りましたが、淋しい限りです。

堀口元生(1960年卒)

上田益弘先輩のご冥福を心よりお祈りします。上田さんは同志社大学バドミントン部のみならず日本のバドミントン界の宝ともいうべき人でした。正に巨星が落ちた気がして悲嘆にくれています。私が鴨沂高校から同志社大学へ進学したのも日本で最初のトーマスカップ代表になられた上田さんに憧れていたからです。上田さんの勤務先が三菱グループの世界長(大阪)で私が三菱商事(最初の勤務は大阪支社)入社後も会社でお会いする機会が多く五大都市体育大会では大阪市代表でダブルスを組んだこともありました。上田さんと同じ東京勤務だった時は三菱商事バドミントン部でご指導いただいたこともありました。私は三菱商事では台北、インドネシア、米国、タイなど海外勤務が長くより深くご指導を仰ぐことになったのは通算21年に亘るタイでの仕事を終え帰国した2016年4月末午後以降です。長年千葉で小中学生や障がい者バドミントンの普及活動をされていた上田さんの勧めで全国バドミントンクラブ(ABC)に入会し神戸風見鶏バドミントンクラブを拠点に障がい者バドミントン普及の奉仕活動を始めました。当初は千葉や東京での障がい者の大会、パラのデモンストレーションや国際大会には上田さんと一緒に見学に出掛けご指導を受けました。私は日・タイビジネスフォーラム(JTBF)の奉仕活動で東京へ出かける機会が多く上田さんがご入院中は3度お見舞いに伺いその都度鷲江さんには写真でご様子を連絡しておりました。今年に入ってからはコロナ騒動の影響で面会にも行けず時折奥様に電話でご様子を伺うだけでした。私事ですが私は9月8日より15日まで入院し昨日退院したばかりで、帰宅した途端、上田さんの奥様よりご訃報のお電話があり丁重にお悔み申し上げまた。奥様によると息子さんが孤軍奮闘していろんな手配をされコロナの影響で親族6人だけで淋しく見送ったと言っておられました。コロナ騒動が終わればお見舞いに行きまた障がい者バドミントンの普及活動のご指導を受けたいと思っていただけに残念至極です。千葉では上田さんは指導を受けた子供たちから「うえじい」の愛称で慕われておられました。上田さんの思い出が走馬灯のように瞼に浮かんできます。「おい!堀口、元気か!」と上田さんがあの大きな手で肩を叩いてくれそうな気がして涙が留めどなく字がぼやけて行きます「うえじい」どうか安らかにお休みください。

伊藤英雄(1962年卒

上田先輩の御訃報に接し驚いています。先輩のご冥福をお祈り申し上げます。先輩のご活躍に励まされ、もう少し頑張って参りたいと思います。

岸本晃一(1962年卒・OB・OG会常任顧問・同志社スポーツユニオン相談役)

紫野高校バドミントン部に入って間もない時、約30人も入部して2面しかないコートでは夏休みになるまでラケット振りとトレーニングばかりの毎日でした。上田先輩との出会いは、同志社と立教の定期戦のチケットを買って柏野小学校へ行った時でした。結果は1対8で同志社が負け、1勝は上田先輩が立教の望月さんに2対1で勝った1勝だけでした。上田先輩のプレーは泥臭い(失礼)感じでしたし、よく拾いまくるタフなプレーでした。その時、これなら自分でも努力すればなんとか成ると思いました。私も卒業後仕事に就いてからは、しばらくバドミントンは出来なかったのですが、全日本社会人大会に出るようになってから時々会場で上田先輩とお会いする機会はあったのですが挨拶だけでした。大学時代、インカレでベスト8に2回成ったのですが、結果2年共2ゲーム途中までリードしながらバテてしまって団体戦で勝っている同じ相手にベスト8で敗退でした。先輩の方々から、バテるから水を飲むなと言われ、その言葉を守っていました。お蔭でお陰で脱水症状で動けなく成っていました。今となっては、せめて上田先輩に「現役時代、先輩は内緒で水を飲んでいたのではないですか」と聞けばよかったと反省しております。

豊原洋治(1964年卒・OB・OG会名誉会長・同志社スポーツユニオン会長)

上田益弘先輩の御訃報に接し驚いています。先輩のご冥福を心よりお祈り申し上げます。同志社大学バドミントン部は400人を超えるOB・OGを有する関西で最も長い歴史を持つ伝統のクラブの一つです。1949(昭和24)年から活動を始め、今年創部71周年を迎えます。草創期には上田益弘先輩(1956年商卒)が全日本総合選手権男子単で優勝し、トーマス杯に出場され、日本のトップレベルの選手として活躍され、まさに同志社大学バドミントン部・同志社スポーツユニオン(51部)の伝統を築いていただいた偉大な先輩として誇りに思っていました。卒業後も日本バドミントン界(一般の選手、身体障害者の選手等)で普及活動を熱心にされておりました。そんな大先輩の訃報に接し、上田先輩が築かれた伝統を私も、バドミントン部をはじめ同志社スポーツのため、頑張って参りたいと思います。どうか安らかにお休みください。

近藤勝彦(1966年卒・東京OB・OG会世話役)

上田益弘先輩を偲んで 上田先輩、ここ数年バドミントン部東京OB・OG会やその関連会合に、姿を見せて頂けなくなり、寂しい思いをしていました。 そんな中、お別れをしなければならなくなったとの知らせを聞き、誠に悲しく残念に思っています。先輩は、現役時代、人並み以上の練習をされてバドミントンで輝かしい成績を上げられ、さらに第二の人生では、バドミントンの普及に、そしてそれにより多くの人々が幸せを感じられる様な環境の提供に力を注いで来られました。本当に頭が下がります。一方、我が同志社大学体育会バドミントン部東京OB・OG会の会合や関東同志社スポーツユニオン年次総会には常に参加頂き、先輩のユニークな話しぶりに私達後輩は耳を傾け、勉強させて頂きました。そして、ユニオンの総会では各部出品のスポーツグッズの競売に参加され、ユニオンの収入に貢献されました。想像しますに、それは遂行されておられたバドミントン普及活動に役立てる為のものだったのでしょう。上田先輩と同じ東京OB・OG会員で一足先に逝かれた同期(昭和31年卒)の村田先輩と天国で再会され、積もる話をされておられることと思います。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

杉山興一郎(1969年卒)

上田先輩は正に同志社バドミントン部のレジェンド、最後までバドミントンを愛されたすばらしい先輩でした。御冥福を心から祈ります。

吉田憲一(1970年卒 OB・OG会副会長)

残念です。でも上田先輩の遺された遺産は、いつまでも残っています。

米納隆雄(1971年卒)

今回は上田先輩の訃報ご連絡いただきありがとうございます。体調を悪くされていることは伺っていましたが、ご高齢とはいえ実際訃報に接すると、まさに一時代が終わったのだ、と痛感した次第です。とにかくバドミントンが大好きな人で、晩年はパラバドミントンにも力を入れておられたと聞いています。車のトランクに用具一式を常に積んでおられたようで、いつでも、何処へでも気軽に指導に行っておられたようです。私も比較的好きな方ですが、上田先輩ほどではありません。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌

鷲江京子(1975年卒 OB・OG会幹事長 同志社スポーツユニオン副理事長)

上田先輩には記念行事で何度かお会いしましたが、親しくお話しさせていただいたことはありませんでした。2012年夏のロンドンオリンピック前の、4~7月に同志社社史資料センター主催の企画展『同志社スポーツ―若草萌えて』が、今出川キャンパスのハリス理化学館で開催され、同志社スポーツユニオンと体育会各部が協力することになり、わが部で全日本総合男子優勝を果たされトーマス杯の代表にもなられた上田先輩に「何か展示にご協力いただけませんか」とお願いしてみました。上田先輩は、「そういうものは何も残してない」とあっさり断られました。しかしそれがきっかけでその後連絡をいただき、故高谷芳明先輩(1956年工卒 上田先輩と同期でバドミントン部OB・OG会発足以来長く会長を務められた)の高槻市にあるお墓参りに行きたいとおっしゃいました。そこでお寺を確認し、上田先輩、北川武司先輩(1956年法卒)、河内利雄先輩(1958年経卒)、故鶴川隆造先輩(1958年経卒)、そして高谷先輩の茨木高校時代の恩師の青木昭二先生もご一緒に、2012年3月10日、高谷先輩のお墓参りに行きました。待合せ場所のJR高槻駅近くの喫茶店でしばらくお話しし、その後お墓へ行き、皆さんゆっくり高谷先輩を偲ばれました。そしてその日はちょうど「2011年度卒業生追い出しコンパ」ががんこ寿司三条本店であり、私は上田先輩と河内先輩を阪急河原町駅から徒歩で木屋町通りを通ってがんこ寿司までお連れしました。上田先輩は当時障がい者や子供達と一緒にバドミントンをしているとおっしゃって、現役とも気さくにお話しをされました。お目にかかったのは、それが最後になってしまいました。その後2014年の「創部65周年・関西学生春季リーグ男子21年ぶり優勝・豊原洋治OB・OG会長 同志社スポーツユニオン会長就任記念祝賀会」へも2017年の「創部70周年記念祝賀会」へもお誘いしましたが、「どうも新幹線に乗って京都へ行く気になれない」とお断りになりました。今から思えば、故高谷先輩のお墓参りと「卒業生追い出しコンパ」に出席されたことで役目を果たしたと思われたのかもしれません。千葉県千葉市在住の上田先輩にとって、京都は遠く感じられるようになられたのだと思います。上田先輩は2019年1月30日に千葉県八千代市の東京女子医科大学八千代医療センターに緊急入院され、先輩が教え子達とグループラインを起ち上げられ、私にも参加のshoutaiがあり、参加をしました。そしてお見舞いに訪れた若者達が投稿する先輩の病状報告をその後受け取るようになりました。大分回復されて転院後リハビリに励まれ、10月4日に退院されたとありました。その後3月5日に平山病院に再度入院され、2020年6月末にはあまり食べられないご様子と投稿がありました。心配していましたところ、7月末には奇跡的に回復され酸素マスクもはずれ、話もできるようになられたそうです。「さすが、スーパーじい」と教え子のつぶやきも拝見しました。そのラインに9月15日付けで2020年、9月12日(土)に亡くなられ、ご家族だけで葬儀を済まされたと息子さんから連絡があったと投稿があり、先輩が亡くなられたと知りました。コロナの影響でお見舞いもなくなり、上田先輩はお寂しかったかもしれません。そのラインには教え子の若者に囲まれた上田先輩の写真がたびたび投稿され、そのたびに先輩の「また体育館でバドミントンをするんだ」という意気込みが感じられ、“さすが上田先輩”と思いました。 同志社大学体育会バドミントン部が誇るレジェンドの上田先輩のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

西尾純弘(1977年卒)

慎んでお悔やみ申し上げます。千葉県八千代市の東京女子医科大学八千代医療センターに入院され、千葉県の近くの医療機関に勤めていながら お見舞いにも行けず申し訳ございませんでした。大先輩であり、何周年かの式典か東京スポーツユニオンで何回かお会いしたことは記憶しています。20年以上先輩ですが、元気のある印象でした。大阪から同志社まで走っていた話とかびっくりしたことを覚えています。 

 

*掲載協力 山瀧芳久OB

                  

                               以上

 

1953.3.6 近畿大会単複優勝 故上田先輩は前列左から2番目





1954年 全日本総合選手権男子単優勝の故上田先輩(中央)

2012.3.10  故高谷先輩墓参 左から青木昭二先生(故高谷先輩の高校の先生)、北川武司先輩、故上田益弘先輩、故鶴川隆造先輩、河内利雄先輩

 

 

故高谷先輩墓参 左から青き先生、故鶴川先輩、北川(武)先輩、故上田先輩、河内先輩

 

 

2012.3.10  2011年度卒業生追い出しコンパ(がんこ三条店)左から竹廣部長、故上田先輩、岸本先輩

 

 

 追い出しコンパで故上田先輩挨拶

 

 

 

2019.3.19 堀口先輩お見舞い


 

2019,7.27 堀口先輩お見舞い


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